2010年3月

7・いつか来るチャンスのために
 
 「バカヤロー!こんなソースはフランス料理ではない。日本料理だ。何やってんだオマエは!」。
毎日のように、こんな罵声が私に襲いかかってくる。憧れのソース部に入って半年近く。来る日も来る日も先輩たちが作ったソースを漉したり、ブイヨン(だし汁)の下準備の用意などであっという間に単調な毎日が過ぎていった。しかし、私は若い料理人が嫌がるそんな仕事を、決して投げやりには扱わなかった。むしろ、自ら率先してその作業を真剣に繰り返していった。そして、いつしかブイヨンの香りや色、つや、野菜の煮上がり具合、骨の砕け方を見極めて、ソースの状態が分かるようになり始めていた。
 実力のある者が上に立つ。年上であろうと、仕事の出来ない者はぞんざいに扱われ、いつまでも良いポストにつけない。それがフランスの料理界だ。年功序列を重んじる日本社会に納得のいかない気持ちもあって渡仏した私だったが、想像以上に凄まじい実力主義の現状に、最初は、ただただ圧倒されるばかりだった。
 これは、どんな職業についても言えることだが、毎日同じ仕事をただ漫然と繰り返しているだけでは、進歩や成果が得られないままに、月日は過ぎていく。しかし、自分の実力を発揮し、他人よりも少しでも秀でたいという思いがあれば、積極性を持って仕事に取り組む姿勢が何よりも必要だ。しかも、それが好きな仕事であれば、多少の困難をものともせず、情熱を傾けることができる。まさに、私はそういう状況の中にいた。        
 私は、この下積み期間が、ある日突然やって来るかも知れないチャンスに応えるための準備訓練だと自分自身に言い聞かせていた。チャンスを与えられた時に、自分がどれ程のレベルの人間でいるかによって、その人の将来は大きく左右される。せっかくチャンスを与えられとしても、それを的確に判断し、行動できるレベルの人間に成長していなければ、チャンスはおのずと遠ざかってしまうだろう。人の人生を変えてしまうほどのビッグチャンスは、誰にでも一生の内に1度や2度は必ず訪れるものだと思う。私は渡仏して以来、いつ来るか分からないそのチャンスの到来を待ちながら、屈辱に耐えて「負けるもんか!」と必死に頑張ってきた。

6・飛躍か挫折か?

 

 ナントのホテル「フランテル」を皮切りにスタートした料理人としての私の修行人生。フランス料理界で腕を磨き名を高めていくためには、料理長の推薦を得て、2~3年ごとに働き先を変え、修行を積むのが普通である。

渡仏から5年後、私に大きなチャンスが巡ってきた。1979年度のフランス国家最優秀料理人、フランシス・トワソリエ氏に師事できることになったのだ。しかし、「料理界の暴れん坊」との異名を持つ彼の下では、決して失敗は許されない。

 「やめた方がいい」。30代後半でフランス料理人として最高の栄誉を手にしたトワソリエ氏に師事することになった私に、先輩の多くは反対した。が、私に迷いはなかった。渡仏以来、氏の噂はあちらこちらで耳にしていたが、実際どんな人物なのかは師事してみないと分からない。私は、チャンスが巡ってきたと思っていた。飛躍か、挫折か。私の料理人生の賭の扉が、今まさに開こうとしていた。

 そして迎えた初出勤の日。緊張感に包まれたまま、朝、8時15分にホテル到着。案内された4階のキッチンでは、既に若い料理人が仕事をしていた。「ボンジュール、ムッシュ」。笑顔で挨拶され、緊張が少し溶けた思いだった。しばらくすると、副料理長のアラン・ブリュネル氏が出勤してきた。「セガワさんですね、お話は聞いております」。ちなみに、彼は、後にエリザベス女王御用達のレストラン「ウストー・ド・ヴォーマニエール」の総料理長に抜擢されることになる人物である。それから1時間半程して、ようやくトワソリエ氏が姿を見せた。「なんて鋭い眼光なのだろう・・」。これが氏に対する第一印象だった。年齢の割に多い白髪が、迫力を増大させている。フランス人としては決して体が大きい方ではないが、全身からみなぎる強烈なパワーに私は圧倒されそうだった。

 私の配属先は、「ギャル・ド・マンジェ(コールセクション)」。ここは、肉・魚・野菜などの下処理や全てのオードヴルを調理する部署だ。仕事量が一番多く、毎日の仕込みに追われるが、それだけに学ぶこともたくさんある。スタッフは10名。指揮をとるのは、やがて私の大親友となるマリオ・ヴィーノ氏。彼は、後にリオン市にあるプロのための真空調理専門学校でジョージュ・プラリュー氏の右腕となり、世界に真空調理法を広めた立役者の一人になった。

 初日のサービスが始まった。ワクワクしながら、ギャルソン(ボーイ)からのオーダーを待つ。オーダーの読み上げと、料理を出す前の最終チェックは、副料理長の担当だ。彼の一声で各部署が一斉に動きだした。先程まで静寂を装っていたキッチンも、料理人たちの熱気と活気に満ちあふれ、戦場のような凄まじさだ。トワソリエ氏の下に志願してきたスタッフたちは、フランス各地の名のあるホテルやレストランで修行してきた強者ばかりである。どんな部署にいようと、皆、真剣なまなざしで一皿一皿に情熱と誇りを込めて自分の仕事に取り組んでいる。これが、プロフェッショナルなプライドなのか。私は、改めてフランス料理の奥深い伝統と歴史を感じた。

 ここで、私はプロの料理人の本当の厳しさを初めて知ることになった。パーフェクトを追求する気迫の人トワソリエ氏に師事しながら、スキあらば自分をアピールして上を狙おうという、覇気に満ちた料理人たち。同僚に同情している余裕など微塵もない。蹴落とすか蹴落とされるか。蹴落とされた者は、自分の力で這い上がるしかない。そんな様子を目の当たりにして、私は気を引き締めていった。まさに、ここは選ばれたプロたちが一流の味を追求し、一流のサービスをお客様に提供する場なのである。

 そして、3か月後、私はソース部へ大抜擢された。ソース部は、すべての料理を調理し、ソースを仕上げていく重要なセクションで、いわば、キッチンの花形。誰もがここで働くことを夢見ながら、日々努力しているのである。もちろん私も例外ではなく、大抜擢に天にも上る気持ちだった。その喜びようは、傍目からみても相当なものだっただろう。しかし、ここからが私の本当の意味での試練の幕開けだった。

5・仏語の猛勉強
                                                           
 トーマス一家が私のために開いてくれたお別れパーティ。私は結局観光ビザで滞在できる3か月をトーマス家で過ごしたのだが、この間に知り合った人達が大勢集まってくれた。その気持ちは、私の心に染み入るようにうれしかったが、どんな慰めの言葉もその時の私には虚しく聞こえた。そんな中、「パパなら、滞在許可証をなんとかできるかもしれないわ」。一人のレディが私に声を掛けた。しかし、これまでトーマス夫妻をはじめ、多くの人が私の滞在許可証取得のために尽力してくれたが、良い返事は得られなかったのだ。せっかくの彼女の言葉にも期待が持てず、私はただ、漠然とうなずくだけだった。
 それから3日後、帰国の準備をすっかり整えた私のもとに、ナントの市役所から突然電話が入った。電話に出たマダム・トーマスの口から「カルト・ドゥ・セジュール(滞在許可証)」の言葉が!マダムの声が次第に大きくなり、顔が紅潮してくるのが分かる。潤んだ目で電話を終えたマダムは「良かった、良かった」とまるで自分の息子のように私を抱きしめてくれた。土壇場の逆転勝利だ。 
 劇的に滞在許可証を取得することができた私は、トーマス夫妻の奔走によって、ナントの四つ星ホテル「フランテル」に就職することになった。運命的な出会いをいくつも重ねて、ついに料理人としての第一歩を踏み出し、夢の階段を上り始めるのだ。私は有頂天になっていた。「フランテル」で料理の総指揮をとっていたのは、後にレストラン「ポール・ボーキューズ」の料理長となる、ムッシュ・ジャン・ルーという名のフランス人。「フランス国家最優秀料理人賞(M.O.F)」を受賞している素晴らしいグランシェフだ。
 待ちに待った初出勤の日。高鳴る胸を抑えてホテルの門をくぐった。「ボンジュール、君が日本からフランス料理を学びに来た、セガワさんですか」とジャン・ルー氏は右手を差し出しながら言った。とても優しいジェントルマンだ。私は、ほっとした。私はオードヴル・サラダ部へ配属された。何もかもが珍しく、野菜を洗ったり、ちぎったりする単調な作業の繰り返しも、全く苦にはならなかった。しかし、そんな楽しい日々は長くは続かなかった。2か月を過ぎたころから同僚の失敗を私の責任にされるようなことが度々起きるようになったのだ。悔しいけれど、私は反論できるほどの語学力がなく、自分の言いたいことを相手に伝えることができなかった。
 屈辱的な日々に、眠れぬ夜。仕事を終え、アパートに帰ると、たまらない孤独感と絶望感に襲われた。そんな日がどれ程続いただろう。しかし、落ち込むだけ落ち込んだら、今度は、持ち前の負けん気が戻ってきた。「このままでは、だめだ」。そのころから、私は死に物狂いでフランス語の猛勉強を始めた。腰に赤と黒のマジックペンを下げ、聞いた言葉を書いていくことにした。しかし、厨房の中では手を止めてメモをとることができない。そこで冷蔵・冷凍室の整理を率先して引き受けるようにし、食材が入った段ボール箱に、耳にしたフランス語を片っ端からカタカナで書き留めていった。仕事が終わると、それをノートに書き写して家で意味を調べる。スペルが正確ではないので、一晩中かけても分からない言葉も多かった。ホテルの同僚に聞くと馬鹿にされるのは目に見えている。私は、メモを持って行きつけのカフェに行き、そこのギャルソン(ボーイ)にスペルや言葉の意味を教えてもらった。
 必死で言葉と格闘する毎日を半年余り続けただろうか。この間の私は、料理よりもフランス語の修得に力を注いでいたように思う。しかし、その甲斐があって、少しずつ言いたいことがフランス語で話せるようになり、かつてのようなトラブルもなくなった。この経験から、言葉というのは生活に必然性がなければなかなか覚えられないことを実感した。ここでは、人に頼ることはできない。何事も自分自身で解決していかねばならないことを肝に命じた。
 ある日、料理長が冷凍室の段ボールに書かれた文字を見て、私がここで勉強していたことを知り、私の努力を認めてくれた。それからが私の本当の料理修行のスタートだった。とにかく一流になるためには、人の何倍も努力するぞと、神経を張りつめて仕事に立ち向かった。
4・親切と屈辱と 
 
「よく来たね」。私を迎えてくれたのは、ムッシュ・トーマスの笑顔と大きな手だった。まるで旧知の友人を迎えるかのような、さり気なさ。差し出されたその手の温もりは、今も忘れることができない。日本を発ってから始めて経験した人の心の暖かさ。私は感激で胸が震える思いだった。張りつめていた糸がゆるみ、涙ぐみそうになった。 
その日出された夕食は、23年たった今も鮮明に覚えている。トマトとキュウリ、セロリをベースにしたパセリ風味の冷たいポタージュ。メインはロースハムにマカロニのバター炒め。そしてサラダとチーズ。フランス料理は豪華できらびやかなものばかりだと思っていた私は、フランスの家庭料理がとても質素だったことに驚いてしまった。このことが分かっただけでも、フランスに来て良かった、自分の選択は間違っていなかったのだと確信し、一人安堵した。記念すべきフランスでの初日は、こうして更けていったが、興奮していた私は、ベッドに入ってからもなかなか寝つくことができなかった。 翌朝、ムッシュ・トーマスは、「フランス料理を学びに来たのなら、ぜひ行こう」と郊外で開かれている市場に連れていってくれた。そこには、私が持っていた市場のイメージを根本から覆すような、目を見張る光景が広がっていた。半身になった骨つきの牛、皮をはいだウサギ、野鳥、切り分けられた豚、羊、子牛、何十種類ものチーズに、みずみずしい香りの野菜、果物、汐の香りがする新鮮な魚介類、そして、カフェで立ち飲みする商人たち・・・。そこには、あふれるような生命感がみなぎっていた。私は、「これが、フランス料理の原点なんだ!」
と、目の前の光景に、体が震えるような大きな感動を覚えた。心細さに泣きそうになりながらシャルル・ド・ゴール空港に降り立ってから2日目にして、フランス料理の原点に触れることができた自分。今こうしてこの地に立っている現実に、計り知れないほどの満足感を覚えた。と同時に、やる気が一気に高まり、翌日からはノートを片手に市場に出掛け、食材の種類、名前、値段、買い方など、あらゆることをメモしていった。 
こうして、1か月が過ぎた。その間、トーマス夫妻は、週末ごとにさまざまな人を夕食に招き、幅広く私を紹介してくれた。しかし、いつまでもトーマス家に居候をしている訳にもいかない。働き口を探さなくては、と私は焦り、仕事を探し始めた。でも、どこへいっても私を雇ってくれるところはなかった。それも、そのはず。外国人が働くためには、フランス政府が発行する滞在許可証と労働許可証が必要だったのである。無鉄砲に日本を飛び出して来た私は、観光ビザしか持っていなかった。 
今考えてみると、情熱ばかりが先走り、それを実現するための具体的な予備知識を全く持たないまま渡仏した自分の軽率さに、我ながらあきれてしまう。こんな大事なことも知らなかったなんて、トーマス夫妻にはとても言えない。とにかく、なんとかするしかないと自分を励ましていたものの、表情にも焦りが出ていたのだろう。トーマス夫妻は、私の状況を察知したかのように、滞在許可証(カルト・ド・セジュール)取得のために、色々な機関に問い合わせをし、奔走してくれた。が、当時、日本人に許可証が発行される可能性は極めて低かった。当時、ヨーロッパの伝統的な社会では、日本人はアジアからやって来た金持ちで文化度の低い人間だと見られていた。同じ人間なのに、自分という存在を認めてもらえない悔しさ。まるで自分をゴミのように扱うフランスという国を恨み、憤りを隠せなかった。 
市役所での屈辱的なやりとり。外国人の私に浴びせられる冷ややかな視線。フランス人でさえ職がないのに、日本人のお前にやすやすと滞在許可証や労働許可証を発行できるものかとでも言いたげな態度。ここはフランス。学生が簡単にアルバイトを見つけられる日本とは違うのだ。巨大な法律の壁が目の前に立ちはだかり、私の夢を破ろうとしている。「絶対に負けられない!」そう自分に言い聞かせ、気持ちを奮い立たせていたが、ついに、帰国の切符の予約を余儀なくされる日がきてしまった。「必ず、戻ってくるぞ!」。私はその言葉を全身全霊にたたきつけるように繰り返し、刻み込んた。

3・マダム・トーマスとの出会い

 

パリ、シャルル・ド・ゴール空港。私はついに憧れの地に降り立った。しかし、空は私の前途を予告するかのように、どんよりと厚い雲に覆われていた。

 そして、待っていたのは、最悪のスタートだ。私の荷物がいつまでたっても出て来ないのだ。私は必死で知っている限りの単語を並べて係員に問いただした。どうやら私の荷物は、別の空港に運ばれてしまったらしい。広い空港にポツンと一人で荷物を待ち続けた数時間。日本人はだれ一人としていない。言葉の通じない異国の空港での心細さを、何と表現したら良いのだろう。私は、とてつもなく困難な道を選んでしまったのではないのか。そんな思いが脳裏を駆け巡った。そして、最初に私を出迎えたこのハプニングが、これからのフランスでの苦難の日々を示唆しているように感じた。本当にこれで良かったのだろうか。余りの心細さに、心臓の鼓動が早くなった。何とか荷物を受け取り、モンパルナス駅行きのバスに乗り込んだ。見知らぬ世界へ向かって走るバスの中で、私の身体は、興奮と緊張で次第に熱くなっていった。

 モンパルナスに着いたころには、すでに日はとっぷりと暮れていた。とにかく今夜の宿を見つけなければと、観光案内書を片手にホテルを探した。しかし、不安に震える私を泊めてくれるホテルは全く見つからない。私は初日の宿さえ決めていなかった自分の無謀さに、自分自身であきれた。そして私の夢を馬鹿にした連中が「ほら、見たことか!」とあざけり笑っているかのように感じて、唇をかみ締めた。疲れ果て、途方に暮れてボンヤリと広場に佇んでいた私に、突然、大柄な60歳前後と思われる女性が話し掛けてきた。

 「ホテルを探しているの?夜になるとこの辺は物騒よ」。私はフランス語が分からないはずなのに、なぜか彼女の言葉が理解できた。私はすがる思いで、日本のホテルでアルバイトをしていたこと、そこでフランス料理に魅せられたこと、料理を学ぶために単身フランスへやって来たことなどを、身振り手振りで次々と彼女に伝えた。私は必死だった。フランス料理への思いを話すうち、不安も吹き飛んでいった。そうだ。私は、料理人になるために、ここに来たのだ。「あいつらを見返してやる!」と決意したあの日の強い思いが胸に込み上げてきた。話し終えた私の顔は硬直し、のどはカラカラ、足元はふらつき、立っているのがやっとだった。その女性は、柔らかそうな金髪を揺らし時々うなずきながら、最後まで話を聞いてくれた。どうやら、私のフランス料理に対する熱意が通じたらしい。この女性、マダム・トーマスこそ、後に私の料理人への貴重な第一歩を切り拓いてくれる大恩人となる人である。

 信じられないことに、その晩はマダムが自宅に招いてくれると言う。私は遠慮する余裕もなく、その好意に甘えることにした。マダムの家は、ブルターニュ地方最大の都市、ナントにある。とはいっても、人口24万5千人弱で、現在私が暮らす旭川よりも小さい町だ。モンパルナス駅から急行で3時間、TGV(世界最高速超特急列車)で2時間かかる。列車の窓から見えるのは、どこまでも続く牧草地だった。だんだん寂しくなっていく車窓の景色には、華やかな花の都のおもかげはなかった。

 マダムについて来たことを少し後悔し始めた時、列車はナントに到着した。駅前通りはひっそりとして、カフェの灯りだけが優しく光っていた。大通りに面したマダムの家に着いた時、時計の針は午後8時を大きく回っていた。

 
2・いよいよフランスへ
 
1974年9月。1年後には一旦帰国する約束で、ついに日本を発つ日がやってきた。その日のことは、今でも時折夢に見るほど鮮烈に覚えている。
羽田空港の出発ロビーにいる私は、フランス語は話せない、知り合いもコネもない、包丁の持ち方すら満足に知らない。フランスに着いてからの宿泊先さえ決めてはいなかった。持っているのは、ただただ花の都パリへのあふれるような憧れと、一流の料理人になるという無謀ともいえる情熱、そして、革のボストンバックに入った15万円だけだった。
出国手続きを終え、搭乗。機内のほぼ半数を外国人が占めていた。国際都市といわれる東京でも、一度にこれほど大勢の外国人を見たことがなかった私は、すでに異国の地にでもいるような錯覚に陥り、それだけで気持ちの高ぶりを抑えることができなかった。落ち着かない気持ちのまま、席に着いた。
さあ、いよいよ離陸だ! シートに身を沈めていた私は、飛行機が滑走路を離れた瞬間、突如として恐ろしいばかりの緊張感に襲われた。次第に小さくなっていく東京の街並み。もしかしたら、これが日本の見納めかも知れない。生まれ育ったこの国に、再び帰って来られるのだろうか。このまま単身フランスへ行って本当に良いのか。私はその時、自分が描いている夢が途方もなく大きいことに初めて気が付いた。体が小刻みに震え、身体中からどっと冷や汗が吹き出してきた。
 そんな私をよそに、まるで最後の挨拶をするかのように、機体はゆっくりと大きく旋回した。強い西日が空をオレンジ色に染めていたあの日。ここから私の料理人としての苦難の一歩が始まるのだが、まさに手に汗を握る程緊張していた私は、まだその道の厳しさを知るはずもなかった。
1・夢の始まり ~決意そして旅立ち~
 
「いまに見ていろ!俺の夢を馬鹿にしたやつらを絶対に見返してやる」・・・。胸の中に熱い思いがこみ上げてきた、あの日。あれから23年の歳月が流れたのだ。
私は今、自分のレストランの窓から、神楽岡の豊かな緑とプラタナス並木を見ながら、ふと、ここに至るまでの自分を感慨深く振り返った。
 私の実家は、北海道の深川市で大手の美容室を経営していた。私は両親の愛情を一杯に受け、何の不自由もなく、恵まれ過ぎる程の環境で育った。しかし、東京に強い憧れを持っていた私は、地元の中学を卒業すると、思い切って東京の高校に進学することを決めた。昭和40年当時は、北海道の地方都市から東京の大学へ進学する人は少なかった。ましてや東京の高校へ進学する子どもなど、私の周囲にはほとんどいなかった。そんな時代の中で私の両親は、一人息子の夢を聴き、上京することを許してくれたのだった。
 そして始まった東京での一人暮らし。自ら望んだ生活とはいえ、実家ではいつも大勢の従業員や家族と一緒だったので、日を追うにつれ大都会での一人暮らしは決して甘いものではないことを自覚した。当然のことだが、食事、洗濯、掃除など、生活に関わるすべてを自分でしなければならない。この不自由さに、15歳の私は戸惑った。そこへ、予想を超える寂しさと孤独感が追い打ちをかける。憧れだけではやっていけない孤独な都会の暮らしに耐えられず、情けない話だが、高校2年の時、故郷の高校へ転入したいと実家へ帰ったことがあった。そんな私に、母は、東京へ戻って高校生活を続けるように厳しく諭した。泣く泣く東京へ戻った私。今思うと、あの時故郷に帰ったままだったら、今の私はなかっただろう。あえて私の弱音を受け入れなかった母の厳しい愛情に、今では感謝している。東京に戻った私は、以後、どんなにつらいことがあっても、「負けるもんか」と歯を食いしばって、東京にしがみついた。そして、いつしか、何事も自らの意志で決断し、突き進んでいく強い精神力を身につけていった。今振り返れば、この高校での3年間が今日の私の原動力となり、人格形成の基礎を作ったのではないかと思う。
 「将来の歩む道」、それを決定づけるきっかけは、大学2年の春にやって来た。私は、一流ホテルでホールサービスのアルバイトを始めることになったのである。当時の東京都内のホテルは、今日のようにだれもが気軽に利用できる場所ではなく、外国人と、いわゆる上流階級の人々が集う憧れの空間だった。豪華客船にでも迷い込んだような優雅さがあり、きらびやかな雰囲気が漂う近寄りがたい別世界のようだった。 
ある日のこと、私はルームサービスで料理を運んだ。食べ終わった皿を片付けに伺った時、非常に喜んで「こんなにおいしい料理を食べられて、本当に嬉しい!」と満面に笑みをたたえながら私に言った言葉と、幸せそうなお客様の様子を見て、私自身の心に強く感じるものがあった。
料理が人間をこれほど喜ばせるものならば、単にホテルでサービスをするより、もっとお客様に直接感動を与える仕事をしたい。そう思ったことが、私が料理人を志した原点だった。常日頃、情熱をかけて取り組めることを、自分の一生の仕事にしたいと考えていた私は、どうせなるなら、一流と言われる料理人になりたいと思った。そして、いつしか、フランス料理の本場であるパリで自分のレストランを持ち、日本人の私が作るフランス料理をフランスの人に食べてもらうという夢を描くようになった。そして、修行するなら本場で、と素直な気持ちで考えていた私は、大学を卒業したらフランスで料理の修行をすることを心に決めていた。「フランスで様々な外国の人たちと生活しながら料理の勉強をし、幅広い教養を備えたインテリジェントなコックになる。そして自分の料理でお客様を感動させるんだ」。私は、コック帽をかぶった自分が、まだ見ぬパリの店に立つ姿を想像して、胸をときめかせた。
 大学2年の秋、料理人になると決めてから、友人たちにもそう宣言し続けた。しかし、だれ一人として私の話を本気にしてはくれなかった。それどころか、「何も大学まで出て、コックになることはないだろう。頭がおかしくなったんじゃないの」と笑って取り合おうとしなかった。当時は大卒の人間は多くが大企業のサラリーマンになる時代だった。料理人になるなど、まるで笑えるような話だったのかもしれない。しかし、私の中では、真に好きな事、情熱をかけられる事を一生の仕事として選びたいと思っていたので、いくら馬鹿にされても決心は揺るがなかった。そして、私の夢を馬鹿にした人たちを見返してやるぞと、決意をさらに強くしていった。
しかし、そんな私も、高校、大学と7年間も東京で勉強させてくれた両親に対しては、なかなか言いだすことができずにいた。結局、私が自分の意志を両親に告げたのは、大学4年になってからだった。夏休みに帰省した私は、できるだけ軽い口調で言った。「俺は家を継がないよ」。「ああ」。あっけない程、短い会話だった。しかし、それは決して投げやりの返事ではなく、自分の息子を信じる精一杯の親の気持ちだったのではないだろうか。嬉しかった。ありがたかった。でも、何故か素直に「ありがとう」という言葉が出てこなかった。その時の私は、嬉しい気持ちと、親に対する後ろめたい気持ちが交錯し、形容しがたい複雑な心境だった。
 

お問い合わせ・お見積もり

ウエディング&フレンチレストラン「ブランシュネージュ」
TEL.0164-26-2880
ランチ 11:30~15:00(14:00 ラストオーダー)
ディナー 17:00~21:00(19:00 ラストオーダー)

〒074-0014 北海道深川市開西町2丁目8番38号
定休日:毎週火曜日(祝・祭日を除く)